『〈盗作〉の文学史』 祝 日本推理作家協会賞受賞

〈盗作〉の文学史

〈盗作〉の文学史

栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史』が日本推理作家協会賞の「評論その他の部門」を受賞なさった。
たいへんな労作なのでどんな賞をとっても当然なのだが、日本推理作家協会賞というのが、ちょっと意外だった。
ご本人のブログによると、

「「盗作」というテーマの性質からいって、推理作家協会が評価しなければ、この本は評価されない」という判断が授賞理由のひとつとしてあったそうです。

とうことらしい。
なるほど。
推理作家協会、グッジョブ! である。



たまに二人称小説を書いてみようかな、と思うことがある。主人公が「あなた」とか「キミ」とかの小説だ。なんだか、かっこよくない?
どうして私は何の疑問もなく二人称小説をかっこいいと思うのだろう。
二人称小説といえば、倉橋由美子の『暗い旅』がすぐに浮かび、かっこいいの原点がそこにあるのは間違いないが、一体、倉橋由美子を初めて読んだ十代の私が、今にひきずるほどに、倉橋由美子の何にそんなにやられてしまったのか、となると、もう思い出せない。
本書の「第一章 メディアの事件としての盗作疑惑」では、江藤淳が『暗い旅』をミシェル・ビュトールの『心変わり』の物真似だと言って批評したことに始まる、有名な『暗い旅』論争の経緯が、丹念に追われているのだが、江藤淳の酷評、倉橋由美子の反論、『心変わり』の訳者の清水徹の見解を読んでいくうちに、当時私が倉橋由美子の小説のなにに共感したのかが、記憶の彼方の水の底からあぶくが上がってくるように浮かび上がってきた。
資料を読むようなつもりで読み始めたこの本で、そういう体験をするとは思ってもなかったが、考えてみれば、膨大な量の資料の積み重ねと、その資料のコントロールがそうとは読者に思わせぬまま明晰に行われているからこそ、そういう体験ができたわけで、著者の力量とお導きにひたすら感謝するしかない。


この章では、倉橋由美子の次に、庄司薫のことが出てくる。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』が『ライ麦畑でつかまえて』の盗作ではないかというのは、もう、私が庄司薫を読んだ70年代後半には、あまりに普通の話題になっていて、むしろ、だから『ライ麦畑でつかまえて』を早く読まなくちゃ、というような本末転倒な状態だった。
庄司薫は読み始めたらやめられなくなった作家の一人で、『赤』『黒』『白』『青』の四作を読んで、その後で、福田章二名だった頃の『喪失』も読んだのだが、『喪失』を読んだときの違和感が忘れられない。文体があまりに後の薫くんシリーズと違っているのだ。『喪失』の文体はとても硬質だ。
もちろん、内容に合わせて文体を変えたと言われればそれまでではあるのだが、ちょっとそれだけでは説明がつかない違和感なのだ。
なぜ、庄司薫はあそこまで文体を変えたのか。
というよりも、なぜ、あの文体を採用したのか、と言ったほうが的確かな。
いろいろなことが言われてきたけど、『〈盗作〉の文学史』を読んだとき、やっと、私は納得のいく説明を受けた気がした。
ああ、そういうことだったのか。
私が三十年くらい、確かめることもなく、しかし忘れもせず持ち続けてきた違和感が、思わぬところですっきりしたことに驚いた。


ところで、初めてトークショーで栗原さんのお話をお聞きした時、なんと明快なしゃべりっぷりだろうと、気持ちがよかった。頭脳明晰、理路整然、それでいて、リズムがいい。
またお話を聞かせていただくチャンスがあればよいのになあ、と思う。