5/25に緊急事態宣言が解除された。
解除されるなり、テレビで街の様子ですと渋谷のスクランブル交差点や新橋の様子が流れていた。報道でもワイドショーでも、ジャンルに関わらずテレビの人って、結局この新型コロナ騒動の間、人っ子一人いない街の様子か、自粛にも関わらずわんさか人がいる様子か、そんな絵柄しか求めてなかったのが、最後まで変わらなかったな。

 

 

職場は営業してもクレーム、休業してもクレームがくるという状況だった。

結局、クレームに対して何かをするということではなく、会社としてどうするのかという姿勢を打ち出して行くしかなく、初めての事態にこまめに方針を修正しながら対応していた。

今は、現場では解除への対応が行われ、見えないところでは第二波に備えてのプランが詰められつつある。

さほど大きくない会社の限られた人材で、同業他社の動向を睨みつつ、こうした対応をするのは大変だろうなと思うけど、契約社員からのクレームも多いようで、気の毒なような気もする。かといって、おとなしく従っているばかりでも、ちょちょちょっと待ってえーみたいなお知らせが来たりもするのだけど。

 

GW中はお天気も良くて犬の散歩やシャンプーや庭の掃除をしていた。

地元にいる限り、スーパーに買物にいくとそこそこの人はいたけど、混雑しているというほどではなく、みんなマスクもしているし、足りないものもないし、時間に追われない日々も悪くないのかもと思えるような毎日だった。

 

5/8にはたまりかねて美容院へ行った。髪の毛がひどいくせっ毛なのでどこの美容院でもいいというわけにいかない。電車に乗って二子玉川までおっかなびっくりでかける。タカシマヤも休みで街は閑散としている。美容院も閑散。

電車に乗って美容院へ行くことにためらいがあったけど、結果的には地元のスーパーに買い物に行くことと、どちらがどうともいえない状態。

 

ところが、翌日、隣町まで家族の誕生日ケーキを買いに車で出かけてびっくり。土曜日だからなのか、お天気がいいからなのか、駅のまわりも、ケーキ屋さんも、ケーキ屋さんの前の公園も人がいっぱい。たくさんの人が歩いていた。

もうステイホームも限界なのかもな。

現に私もケーキを買いに来たわけだし。

 

GW後も家族の在宅勤務は続き、私の仕事も状況は変わらず、都内の感染者は減り続けた。

 

 

 

三日坊主にすらなりそこねるところだった

急に仕事が忙しくなって、といっても出勤日が増えたわけではないのだけど、気づけばここを再開して2日で書くのをやめて、あっという間に一ヶ月近くが過ぎてしまった。

3日坊主でもいいと思って始めたのだが、あやうく、三日坊主にすら足りないところだった。

 

前回、3/2から2週間の休校が始まったところまで書いたのだった。

ばたばたと学校が休校することになったときは、安倍首相の勇み足だとか、共働きの家庭はどうすればいいのかとか、反対意見も多かったけど、職場で子どもたちや保護者を見るかぎり、休校にするのはいいのではないかと思った。すでに、低学年の子のなかには、塾には来なくなっている子もいた。保護者も怖がっていた。

塾も学校に合わせて教室を閉めることになった。

 

この2週間の休みの間に、ちょうど預かっていた保護犬にお見合いのお申込みがあり、屋外でお見合いをして3/10に横須賀までお届けにあがった。途中、横浜駅を経由したが、多少人出は少なく感じたものの、まだまだ駅には人がたくさんいた。

 

3/15にいったん休校が解除され、塾も再開。授業を一週間だけやりすぐに春期講習に入るが、通室させたくないご家庭のために動画配信や電話での質問受付は継続。

3/6からは学校も再び休校。塾も休校。

動画配信のための撮影に駆り出されて出勤してみたら、本社はもう大騒ぎで、なんとかカリキュラムに遅れないよう授業動画を撮影しようと、連日懸命の作業が続いていた。

4月の第三週からはzoomを使った質問教室も開始。

このあたりのことが、自分の仕事の忙しさだけでしか語れないのは、他にまったく外出をしてないからで、週に一日の出勤と撮影、オンラインでの打ち合わせ等以外で顔を合わせるのは家族だけという日々。

 

東京都の感染者は日に日に増え続けた。いったん減っても少し気が緩んで外出する人が増えると一週間から十日後に感染者が増える。

マスクが絶望的に不足していて、ネットでは値段がすさまじいことになっていた。

使い捨てマスクも洗って2回、3回と使う有様。しかし、実際に洗ってみると、あまりへたることもなく、着用感も変わらず、ちょっと驚いた。幸い、花粉症用に買っておいたマスクがあり、高額なマスクを買うことはなかった。

 

そして、自粛生活はGWへと向かった。

 

 

新型コロナ、いつからだっけ(個人的な記録)

週一日の出勤日以外は、食料品をスーパーに買いに行くのと、犬の散歩くらいしか出かけていないのだけど、振り返ってみると、これっていつからだっけ。

そんなことはニュースを遡ればわかると思うけど、そうではなくて、自分はどうだったのかというのがたったここ三ヶ月のことなのに、どうも思い出せない。

最近、とにかく、記憶があやしい。

 

お正月は実家の父が遊びに来て十日ほど泊まっていった。八十半ばの父とあちこち行ってもなんとも思わなかったので、この時期には私の中には全く警戒感がなかったのだろう。

1/24、25は長浜に鴨鍋を食べに行っている。

ところが、1/26に銀座で友人とランチしたときには、きっちりマスクをしていたし、少し人混みが怖かった。中国からとおぼしき観光の人がこんなにたくさんいるのだなと思った。春節の休みが始まっていた。

1/28に渋谷で歌之助の落語を聴いた。会場ではかなりの人がマスクをしたままだったし、私もマスクをずっとつけていた。隣の人が咳をするのが気になった。

そんなことを言いながら、1/27の仕事帰りに御徒町で四人で飲んでいたりもする。

仕事場では既にかなりうるさくアルコール消毒を徹底しつつあった。

まだ自粛やイベントの中止は起きていなかったように思う。

 

2月になって横浜港のクルーズ船がニュースに取り上げられるようになるが、船という特殊な環境だからなと認識していた。防疫がうまくいくと思っていた。

カルチャーセンターもまだ通常営業。夫の出張も予定通り。2/13には心配性の友だちもまだいっしょに飲んでいた。美容院へも行った。

2/15に花粉症の症状が出始める。今年は早い。

2/26あたりからは授業中もマスクははずさないことになった。だんだん飲食店のお客さんが減ってきた。

まだ恐ろしいというほどには危機感はなかった。手をしっかり洗い、マスクをしていれば防げると思っていた。

豪華客船や屋形船の感染は特殊なケースという認識だった。

3月初めの会社の恒例の飲食を伴う全体会も中止が決まる。

そして2週間の休校が決まる。当然、塾も休み。突然の二週間の休み。

なにをいまさら

いまさら、またここに何かを書く気なのか、自分でもちょっと信じられないような気持ちなのだけど、まあ、いいかな。再開して三日坊主でも、三日は書いて何かを残せるわけだし。

 

元気です。年は取りました。

年を取ったので怒りっぽくなっていて、外出を自粛しない人をニュースなどで見ると腹が立ちます(笑

昨日、一番腹が立ったのは、佐倉のチューリップ畑にわんさか人が集まって80万本のチューリップを刈り取らねばならなかったという記事でした。

見物人が集まらなければもう少し咲き続けることもできたのだろうに。

 

あまりアクティブなタイプではないので家にいるのが苦痛でどうしても外出しちゃう人のことはよくわからないな。それよりも出勤が苦痛。しかし、それもどうやら今週からは週に一日で済みそうでよかったよかった。

 

そういえば、腹が立つといえば、家にいる時間が増えたのに、ちっとも本を読んでない自分に呆れ返っています。読むか書くかしたほうがいい。

 

 

 

 

ここに行った美術展のことをメモしておこうとしては、書かなくてはならないメールがあることに気づき、そして、メールを書こうとしては、そうだ、美術展のことをメモしなくてはと思い、結局、どちらも進まないという老人病。


*クリスチャン・ボルタンスキー @東京都庭園美術館 2016 9/22〜12/25
リニューアルした庭園美術館はまだ寒い頃に一度行ったけど、そのときはガレ展をやっていて、けっこうたくさんの作品が置かれていて、建物そのものを見るには向いていなかった。
今回は落ち着いて建物を見ることができた。
しかし、建物の中を歩いていると、ぼそぼそと日本語で喋る声がずっと聞こえていて、なんだろうなあと思っていたら「さざめく亡霊たち」という作品だった。


*水―神秘の形 @サントリー美術館 2015 12/16〜2016 2/7
重要文化財 《日月山水図屏風》
石山寺縁起絵巻 谷文晁


黒田清輝展 生誕150年 @東京国立博物館 2016 3/23〜5/15
黒田清輝の先生のラファエル・コランの絵にものすごく驚いた。


*原田直次郎展 @神奈川県立近代美術館 葉山
ミュンヘン森鴎外と知り合い、終生の友情を結ぶ。『うたかたの記』の画学生巨勢のモデル。
《騎龍観音》もたいがい妙な絵だと思うが、他にも八岐の大蛇を退治している画の中に、唐突にプードルのような犬がキャンパスを破って顔を出している絵があり、あまりに強烈でそればかり覚えている。


*英国の夢 ラファエル前派展 @Bunkamura 2015 12/22〜2016 3/6
美術史史上、もっとも厨二病な画家たちと、とある人が言ってるのを聞いて吹き出した。


安田靫彦展 @国立近代美術館 2016 3/23〜5/15
15歳と16歳の時の絵から展示がはじまっていたのだが、こんな子が弟子入りしてきたら、先生はうれしくてしかたなかっただろうなと思った。
昭和21年に《謡坂》という絵を描いていて、これは「合戦に敗れて落ち延びた源頼朝の唯一の従者、土井実平が喜びのあまり、謡を歌い舞う場面」とのこと。


*大妖怪展 @江戸東京博物館 2016 7/5〜8/28
人が多くて、あんまり見てない。行っただけ。
奈良で《辟邪絵 神虫》みておいてよかった。
しかし、妖怪展に土偶があるのはいかがなものか。


恩地孝四郎展@東京国立近代美術館 2016 1/13〜2/28
展示数が多くて、結局、あまり印象に残っていない。
油絵がいくつか出展されていて、それが版画や抽象画の恩地孝四郎作品とはずいぶん印象がちがっていた。


*吉田博展 生誕140年 @千葉市美術館 2016 4/9〜5/22
山の絵があまりに美しい。登山家なのだと聞いて、高い山をさらに高いところから俯瞰した絵の広がりが腑に落ちた。
明治32年に渡米して、自分の絵を売りまくって旅を続けたという話に感心する。
水彩、油彩から木版画へと遷っていった画家。


*はじめての古美術鑑賞@根津美術館 2016 7/23〜9/4
かわいらしくてためになる美術展だった。行ってよかった。

モテる男

生きてます。
そうまずは書かないと話が始まらないくらいここを放置している。
せめて美術館に行った時と映画を観た時くらいメモしておこうと思うのだけどしていない。
フェイスブックは窮屈だし、ツイッターは流れていくし、ここに帰ってこようと思いながら、帰ってこられない。


シン・ゴジラ』と『君の名は。』は観た。
どちらも興奮した。
君の名は。』は、ただの男女入れ替わり終末ものかと思っていたら、そんな話じゃなくて、脚本がよくできているのに驚いて、ただ感心した。
新海誠の以前の作品『言の葉の庭』や『秒速5センチメートル』に比べるとオタク臭とか童貞臭と呼ばれているようなものが抜け、しかし、SF読み慣れているような層のツッコミにも耐える強度が脚本にあった。これがきっと大ヒットの理由だろうなと思った。(そんなことは、ちょっとネットで検索すれば山ほど出て来る感想だろうけど)
加えて『言の葉の庭』のアニメーションの透明感と、独特のアングルが何倍もに洗練されている。


小説は今年に入って大森望さんが主宰のゲンロンカフェの「SF小説創作講座」というのに参加していて、ものすごく苦戦している。
でも、それはわかっていた。なにしろ、子どもの頃から何度もSF小説書いてみようと思ったけど、書けたことがない。それを今になって書こうとしているのだから無理ゲー中の無理ゲー。
梗概6本、実作1本出したけど、一回として誉められていない。
なんかかっこいいもの書きたいとか思っても無理なので、メロドラマ的SF書いてみようかと思ったのはいいけど、時代を越えて出産可能年齢の女性の興味をひく男の特徴ってどんなものだろうと考えて頓挫してしまった。
お金があるとか社会的地位があるとか学歴とかはSF設定的に意味がないので、もっと本質的に女性に好かれる特徴。
見た目はおそらく左右対称性が高いほうがいいだろうけどな。
話としては、人類の遺伝的多様性を求める話になるので、セクシーであることが大事かなあ。


(この日記というかメモは、以前は、どこにいるかわからない読者に向かって書いていたはずだったけど、ここのところは未来の私に向かって話しかけてるようだ。全てを忘れてしまう自分のために残しているようなつもりになっている。
でも、これを老人になって読んだとして、なんの役に立つんだろう。)

阿川弘之が亡くなった。
『春の城』を読み返したいと思い本棚を探したがみつからなかった。
『雲の墓標』と並んでいる背表紙をありありと思い出すのだが、考えてみれば高校生の頃に読んだのだから、実家の本棚の記憶なんだな。


高校の頃、英語の成績があまりに悪いので塾に行くことになった。
アパートの一室に高校生が五人ほど集まって自閉症の女の子について書かれた英語のテキストを読解していくという、今思えば受験勉強に役に立ったのかどうかわからないような高度な授業だった。学校の英語の授業以上についていけなかった。
そこで教えていたのが楠本先生で、どこの大学だったのか英文科の教授ということだった。
私が部活動は文芸班だと知ると楠本先生は、書いたものを持ってきなさいとおっしゃった。部活動で出していた文集『紫苑』をおそるおそる渡した。私は当時富岡多恵子金井美恵子の影響をもろにかぶった詩を書いていた。
大人に詩を見せるのは初めてだった。
楠本先生は、私の書いたものを誉めてくれた初めての大人で、私が何かを書くことを毛嫌いしていた母に向かって、「お嬢さんの詩はとてもいい」と言ってくださったのだけど、もちろん母はそんな言葉には耳を貸さなかった。
楠本先生は時々「活動の足しにしなさい」とか「みんなでお菓子でも食べなさい」といって文芸班にカンパをくださった。そんな大人がいることにもびっくりした。
ある時、楠本先生は「ぼくもね、高校生の頃はいろいろ書いていてね、たまによく書けているとね阿川が拾って載せてくれてたんだよ」とおっしゃった。「阿川は、やはりとびぬけてうまかったよ」
先生の広高時代の思い出だった。
本の中でしか接したことのない旧制高校阿川弘之が、一度に目の前に展開されて、高校生の私はうまく反応できなかった。
幸い、その年の楠本先生の生徒五人は全員志望校へ合格した。
入学のために上京する直前、楠本先生のところに挨拶にいった。
「ずっと君は詩を書くといいよ」と言ってもらったが、その頃もう詩は書けなくなっていた。
「ぼくの論文の序文ができたので読んでください」とホッチキスで綴じた小冊子をくださった。
『呪われた血の叛逆詩人--George Gordon Byron.』
楠本先生がバイロンの研究者であることをそのとき初めて知った。