門脇邦弘 「鍬を手にして夢見る人」

門脇邦弘さんが、四月に亡くなられていたことを、今頃知った。ずっと、透析などの闘病生活が続いており、最近では車椅子に乗って仕事を続けてらしたのは知っていたのだが、けれども、なんとなく、またお目にかかる日が来るような気がしていた。
戒名は「大夢鍬邦居士」だそうだ。リリエンソールの「鍬を手にして夢見る人」から二字が入っている。


門脇邦弘さんをなんと呼べばいいのだろう。
「生き生き村」の「村長」と呼ぶのがいちばんいいのだろうが、私にとっては、いまだに「あしのこ学校」の「おとうちゃん」なのかもしれない。
昭和57年に「組織蘇生センター」を立ち上げ、企業向けの「NL研」や講演活動と、子供や若い人向けの「生き生き村」の活動をなさっていた。でも、そんなことでは門脇邦弘さんのなにも説明できない。


私が門脇さんに初めて出会ったのは、中学三年生の夏休みで、岡山で開催された「あしのこ学校」だった。小学生から高校生までの子どもがグループ毎に、テントで数日過ごしたわけだから、キャンプといえなくもないけれど、飯盒炊さんとか、キャンプファイアーとか、そういうこととは無縁のキャンプだった。
高校一年生の夏も、大井川の近くで、門脇さんと幾日かを過ごした。


もし、今の私に、少しでも、誰が見ていないところでも正しくあろうとする心や、努力する力や、あきらめない気持ちがあるとすれば、それは、この中学三年生と高校一年生の夏に得たものが残っているのだと思う。
でも、それは門脇さんが教えてくれたものじゃない。教えてもらったものなら、すぐに忘れてしまっただろう。
何十年たっても残っているのは、門脇さんが、私自身に考えさせてくれたからだ。
あの時の体験がなければ、今よりもっと卑怯で考える力のないクズみたいな大人になっていたはずだ。


最後にお目にかかったのは、広島の倉橋島で開催された「生き生き村」に娘を参加させたときだった。
あの時、呉へ向かう電車の中で「最近の大人は子どもに寛容でなさすぎる」という話をしたのだった。甘やかしてはいけないところで甘やかすくせに、寛容になるべきときに寛容でない。それがどれほど子どもの生きる力を奪っているか。そんな話だった。
子どもだった私が、門脇さんと子どもの話をしているのだなあ、と不思議な気がした。
よく晴れた日で、海も空も明るい色をしていた。


長年「生き生き村」で「村長」を助け続けた、テカ、しんご、J。
3人の青年の、飾りのない追悼文に涙した。