あらかじめ失われた日記

小学生や中学生の頃、日記は誰にも読まれたくないものだった。
でも、今、こうやって気がつけば見知らぬ誰かに読ませたくて日記を書いている自分がいる。
誰かに読ませることが前提になってる日記は、あらかじめ日記としての何かを何かを失っているような気がする。しかし、反面、読まれることが想定されてない日記などないとも言える。
武田百合子の「富士日記」のような日記を書きたいと思いつつ、しばらくは、いやもしかしたら、延々と自意識の塊のような日記を垂れ流すしかないのだろう。