縄文土器を拾う人 byシジジイ

そう、これを読んでる多くの人が行ったことがあるであろう、都内某所某施設の広大な敷地を西日に照らされながら出口に向かってその人と歩いていたんである。
勿論話題は、他愛もない与太話。

私がなんということもなく
「これがメタセコイヤなんだ」
と太い木のそばで立ち止まる。幹には化石でのみ確認されていたメタセコイヤが1945年に生きているのを発見されたいきさつが書かれたプレートが下がっている。
私がそれを読んでいるとき、その人は急にしゃがんで足もとの赤っぽいなにかを拾った。2センチ×3センチくらいの平べったい石。
私には一見植木鉢のかけらにしか見えないような代物だ。
「ジョウモンだな」
「はぁ?」
指先でこびりついた泥をこする。
「間違いなく縄文だ」
なるほど表面に縄目のような模様が見える。植木鉢のかけらにしては厚みがあるしね。
近くの水道でざっと泥を洗い流す。あらためて見せてもらうと、疎い私にもそれが植木鉢のかけらでないことはわかる。

驚いた。ビツクリギョウテンだ。
こんなところで縄文土器のかけらを拾う人がいるなんて。しかも、ひっきりなしにたくさんの人が往来する場所だ。いや、そんなことより、なんでその泥に汚れて表面がほとんどみえないかけらを拾ったりしようと思うんだろう。
「どうしてそれが縄文だってわかったの?」
「それは、たくさん見てるからかなぁ。なんとなくひきよせられるというか、現場百回っていうか」

この場合現場百回と言う言葉が一般的に適切かどうかわからないが、少なくとも私にとってこれほど合点のいく言葉はなかった。とてもよくわかった。
確かに好きでたくさん見てるものは違いがわかるよね。骨董の鑑定なんかも結局はそういうことなんだろう。数値では表せないオーラのようなものが本物からは出ていて、それは本物をたくさん見てきた人だけが感じるものなんだろう。

子供の頃、何度か植物の化石をみつけたことのある川原に行きたくなりました。でも、そういえばその川原はとっくにダムの底に沈んだんでした。
水底の化石。