我が愛する詩人の伝記 室生犀星

先週の木曜から甚だ気のふせるようなことがあり、それが昨日なるようになったというか、当然ろくでもない結果をむかえ、いくつになっても人と人の関係は難しいものだと朝から気が重い一日だった。
朝のうちに用があって人気の無い住宅街を歩いていると強い金木犀の匂いがした。きょろきょろと花を探すがみつからない。匂いだけがする。用をすませた帰り道、やはり匂いはするのに花がみつからない。淋しいようなつまらないような気がしてますます気がふせる。

本屋をあてもなくぶらぶらする。なにか読みたいけどどれもこれも違う気がする。読みたくない本ばかりが目につく。三省堂有隣堂という何の意味もないはしごをして、今日は新しい本を読みたくないのだと気がつく。読みたい本も見つからず、お腹も空いてきていらいらと悲しさがいり混じり、悲しいような腹が立っているような気持ちになる。この気持ちが収まるような安心できる本が読みたい。

結局私が選んだのは『我が愛する詩人の伝記』

我が愛する詩人の伝記 (中公文庫 (R・19))

我が愛する詩人の伝記 (中公文庫 (R・19))

限定復刊の帯がついている。
これを最初に読んだのはいつだったのだろう。もしかしたら私の中にまだ詩を書くことへの未練があった頃かもしれない。犀星と交流のあった有名な詩人達の生の姿を垣間見るのだけが楽しくて読んだであろう自分を容易に想像できる。「我が愛する」という言葉すらまるで決まりきった枕詞のようにしか当時は受け取れていなかったことだろう。
師である白秋、信頼する友である朔太郎や堀辰雄立原道造が明るい口調で語られるのだが、生涯の詩の好敵手高村光太郎のくだりだけは異質である。光太郎を書いていながら生々しい詩人としての犀星が強くあぶりだされている。
詩を遠く離れたいまになってこれを読むと、やっと犀星の語る詩人達の横顔とそれぞれの詩が結びつくのを感じる。


智恵子についての一節

女の人が行き抜くときには選ばれた一人の男が名の神であって、あとは塵あくたの類であっていいのである。


とにもかくにも、時間が経つのがいつもの倍にも感じられた今日一日を、この本を読んで過ごすことができたのである。立原道造の詩がやたらと胸に沁む。

夢はいつもかへつて行った 山の麓のさびしい村に
(略)

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
(略)
                『のちのおもひに』より