あんた、半身買わんか

一月ぶりに、ひいきにしている魚屋に寄った。
目をひくほど色のいい鯵が出ていたが、悲しいかな少々小ぶりに過ぎる。秋刀魚はよい型のが出ていたが、今日の気分ではない。
今日は刺身ともう決まっているのだ。
よさそうなめばるといさきの刺身が出ているので奮発して両方買ってしまおうか、いやまてよ、と氷の上にさまざまな魚が一尾ごと並べられているコーナーの前に移動してしばし立ち尽くす。並べられた魚の中で、ひときわ大きな一尾2500円の金目鯛が二尾並んで大きな黒い目をむいている。どうも私はこの作り物のような魚が苦手だ。特に、目がいけない。穴があいたような目だ。
そういえば、金目鯛といえば煮つけとばかり思っていたが、先日下田の寿司屋で出された金目鯛の握りが思いのほかおいしかったのを思い出す。
真鯛や平目はおいしそうだが、夕飯のおかずにするには手の出ない値段だ。どうしたものか、店内をもう一回りしてみるか。この魚屋にくると、いつも私は魚を見るのが楽しくて広くもない店内をぐるぐる回ってしまう。


「あんた、半身買わんか」の声に、まさか自分にかけられた声とは思わず、それでも顔を向けると、どこか内田百輭を思わせる帽子の老紳士が私にむかってもう一度老人特有の大声で言った。
「あんた、半身買わないか」
どうやら金目鯛のことらしい。確かに丸ごと買うには大きすぎる。
「半身なら1250円だそうだ。あんたはどうやって食べるんだ。うちは煮つけだ。うまいぞ」
「うちは、湯引きしておつくりで食べます」
食べ方をきかれて思わず答えてしまった。紳士はうれしそうに「この人が半身引き受けてくれるそうだ」と売り場の女性に早速伝えている。

いや、だから、まだ半身買うって言ってないのに……

まあ、いいか。こんなことでもないと、金目鯛も買わないしね。それに、擬百輭翁がにこにこしてるし。


家に帰って『御馳走帖』を開く。百輭の写真を見て、今日の紳士はやはりよく似ていたと再確認する。口元が特にそっくりだ。今頃は煮つけができた頃だろうか。私に熱心に湯引きにするには熱湯をかけていいのかどうか尋ねていたところをみると、もしかしたら、半分はおつくりにしたのかもしれない。

御馳走帖 (中公文庫)

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