甘い生活

自分でもなんでだかわからないまま、行かねばならぬ気がして渋谷のBunkamuraまでフェリーニの『甘い生活』を観に出かける。1960年製作の映画で、私が最初に見たのは80年代の初め頃かな。その頃、フェリーニとかゴダールとかトリフォーとかヴィスコンティとか、よく観ていた。具体的に誰に追いつくということでもなかったのだが、早くいろいろ観て追いつかなくちゃと焦っていた。タルコフスキーヴェンダースを観るようになる直前である。
あの頃は映画を観ると、わかったような気になり、わかったようなことをしゃべり散らしていた。気のきいたことを言いたくてたまらないお年頃だった。そして、それと同じくらい、下手なことを口にして、なにもわかってないのがばれるのが怖かった。黙っていてバカだと思われるのも、しゃべってバカがばれるのも、どちらも嫌という、自意識過剰故の滑稽な事態に陥っていた(正直に言えば、今でもそういう事態は時々ある)


冒頭のキリスト像がヘリコプターで運ばれるシーンや、アヌーク・エーメへの憧れは記憶の中の通りだった。今見ても、アヌーク・エーメはすごくかっこいい。
でも、昔はなにもわからず観ていたのだ。作家を志してローマに出てきて、ゴシップ紙の記者をやっているマルチェロの挫折感だって、わかってるようなつもりでいたけど、今ほど痛みとともにあの戸惑ったような表情を受容することはできなかった。どこかに、おまえがプレイボーイだからいけないんだよ! もっと真面目に生きろよ、と非難する気持ちがあった。

甘い生活』ってこういう映画だったんだなあ。


松岡正剛は確か、高校生のときに『甘い生活』を観てフェリーニに心酔したとどこかで読んだような気がするのだが(これ、確認してない情報です)、さすがに才有る人は違うというべきなのか、そんな男子高校生は嫌だな、と言うべきなのか、湿度の高い渋谷の街を歩きながら、そんなことを考えた。