愛、愛、愛の大合唱にはもううんざりだ! byシジジイ

中学生の時、倫理の時間にシスターから、愛にはアガペー、フィリア、エロスの三種類あると教えてもらった。
カトリックのミッションスクールでは、勿論アガペーこそが本当の愛であると規定された。
一見難解な概念であるアガペーだが、中学生には、エロスやフィリアよりも受け入れやすかったように思う。
「汝を愛すように汝の隣人を愛しなさい」というのは、自分では実行できないが、しかし、まあ、そんなこともあるんだろうな、という風に認識できた。

その後の人生で、私はエロスとフィリアには個人差がありすぎることで、多々悩んだ。
特に恋愛は与えられたものと同じだけのものを求められることが多く、そんなには愛を持っていないことが露呈すると、冷たい人間だと責められた。
「あなたのために死ねるのだから、あなたも僕のために死ねるだろう」
そんなことはないのである。それはまた別の問題だ。

さて、タイトルにした「愛、愛、愛の大合唱にはもううんざりだ!」は、私のアイドル、中島義道先生の「愛という試練」マイナスのナルシスの告白 (紀伊国屋書店)の帯に小さく書いてあるコピーである。

すさまじい内省の書である。
『母は「愛のなさ」を四十年間責めつづけ、さらに父が死んだ後も五年間「あいつが悪い、あいつが悪い」と呟きつつ、二年前に死んだ。姉はこうした両親の「愛のなさ」を断罪しつつ、二十代にプロテスタントの熱狂的なクリスチャンとなり、六十歳まで独身を通している。妻は私の「愛のなさ」に絶望して、三年前にカトリックの洗礼を受けた。つくづく私は愛について特殊な環境のもとにいると思う。』
ここを読んだだけで本屋のレジに直行した。(おかげで、山岸涼子の「テレプシコーラ」5巻を買いに後でもう一度レジにいくはめになった。)

初めて読んだ中島先生の本は「うるさい日本の私」だった。著者の中島義道が何をしている人かわからないまま、一つ一つの騒音に抗議をするその執拗さに拍手を送った。なんとがんこなおっさんなんだ。
次に読んだのは「私の嫌いな10の言葉」で、これまた執拗に世の中で良しとされている言葉につっかかっていく姿勢が大好きになった。ほんま、いちゃもんつけさせたらこのおっさん、日本一やで。
その後、中島義道は哲学の先生だと判明。敬意を表して「カントの人間学」を読む。次が「働くことがイヤな人のための本」そして、「愛という試練」へと続く。

なぜこんなに中島先生の本を読んでしまうのか。
それはえげつないまでに私事を語るからなんだろうと思う。
別にそのへんでなにも考えず相手を替えてはセックスしてる誰かの私事を語られても困るのだが、充分に思索を重ねてきた中島先生が、病的な自己愛を述べ、自己に病的に執着するがゆえに起きた恋愛騒動を、自己愛の出生証明書だと言って語る時、それにただ私は聞き入ってしまうのだ。最初はそこに私の何かを解決する答えを探してるつもりだったような気もするが、今となっては、ただ、ただ、事実に聞き入ってしまうのだ。

私は賢い誰かの、私事がただ読みたいのだということにやっと気がついた。
森有正先生のこと」 栃折久美子 筑摩書房 を突然読んでみたりしたのもそういうことだったのか、と納得した。