なぜ、うまく語ることができないのか byシジイイ

嵐山光三郎の「口笛の歌が聴こえる」が復刊されている。
復刊したのは、自費出版新風舎。いろいろな作家のデビュー作品を復刊して新風舎文庫というのを出している。名も実もあるうまい商売考えたなぁ、と感心した。新風舎文芸社の本を買うことはあるまいと思っていたけど、おもわず買ってしまいました。

私が進学のため上京してきたのはもう80年を目前にした頃だったけど、あらためてこの本を読んで思ったのは、私があこがれていた東京のイメージはここに書いてある60年代だったんだ、ということ。(この本は勿論私が上京したよりずっと後に出版されているので、上京前にこれを読んで憧れたってことではないです)
当時は、もっと新しい最前線の同時代の何かに期待して東京に住んでいるつもりだったのだけど、そうではなかったんだなぁ。

最近、70年代論や80年代論を目にすることが多いのだが、同じ時代を生きてきたはずなのに、私には語るべき72年も83年もない。70年代はヘッセと太宰で幕を開け、ひたすら文学を読み続け終わった。確か幕が引かれる間際に読んでいたのは富岡多恵子金井美恵子の詩だったはずだ。時代に追いついていない。
80年代になり、就職したらすでにバブルへの道が出来始めていて、残業と副業にあけくれ、夜な夜な飲んでいるうちに90年を迎えた。この十年は本を驚くほど読んでいない。

同い年くらいの知人が四方田犬彦の「ハイスクール1968」ならぬ、「ハイスクール1978」でも書くべきかな、などと冗談のように言ったが、それを聞いたとき、個人史を語ることがイコールその時代を語ることになるのは、その知人があの時代の文化をはっきり自覚していたからなんだ、と気がついた。
時代の波も傾向もわからぬまま、言ってしまえば何が流行っているかも知らぬまま、ほこり臭い図書室で、もう何年も誰も借りていないような本をどれほど読んだか、というようなことをひそかに自慢していた私にはできないことなのだ。

本も時代も読み解く力がなければ、読んだり過ごしたりすることは出来ても、語ることはできないのだ。

読後感も、映画の感想も、展覧会の印象も、なにもかも私はうまく言葉にできない。ただ、おもしろいとか、あなたも行ったらいいよ、とか、好きだな、とか、そんなことしか言えない。
いろいろ考えてるつもりなのに、どうしてこうなのかしら、と悩んでいたが、それについても、ちょっとだけわかったような気がした。
わかっても改善されるわけではなかろうが。