おまえはどうして本を読むのだ? byシジジイ

時々、本を読めなくなることがある。
習慣のように身の周りには必ず未読の本が積んであるし、時間が少しでもあれば本を開くのだが、気がつくと、文字を目で追ってるだけでちっとも頭に内容や筋が入っておらず、ただページだけを進めている自分に気付く。
こんなときには何を読んでも、例えば、新聞や週刊誌を読んでも無駄である。読んだはしから忘れていくだけだ。

私の読書力からすれば、読みたいと思った本を全部読めるわけではないのはいたしかたないが、それをわかっていても、まだ読んでない本の膨大さに押しつぶされそうになる。あれも読みたい、これも読みたいという前向きの欲求が、あれも読んでないこれも読んでないという悲観的な焦りにすりかわっていく。
あれを読んでないなんて恥ずかしくて誰にも言えない、などという見栄も手伝って、どんどん急いで読まなくてはいけないような気がしてくる。
それなのに、なにも読めないのは苦しい。胃のあたりがカァッーと熱くなる。

本を読むのは愉悦だが、同時に、集中力を欠いてきた昨今は苦痛でもある。
まだ十代の頃、勉強もせず本ばかり読む私に父が尋ねた。
「おまえはなんのためにそんなに本を読んでいるのか?」
私は迷うことなく答えた。
「こうして本を読んでいれば、いつか坂の上にたどりつき広い海を見晴らすように、いろいろなことが一気にわかる日がくるかもしれないから」
私は読書家の父がこの答えに感動してくれると思ったのだが、単に苦い顔をして
「見晴らして、それでどうする?」
と言われただけだった。
私に質問した父はちょうど今の私と同じ位の年齢だった。
おそらく当時の父には本を読みつづけたところで海を見晴らせる坂の上になど辿り着けないことがもうわかっていたのだろう。
というよりも、もしかしたら読書というものがそういう現世利益を得るためのものではないと娘に伝えたかったのかもしれない。

父は老人となり、娘は中年となったが、あいかわらず、本を読みつづけている。
時々思う。見晴らそうとしていた海はなんという名の海であったのだろうか。