軽い本 byシジジイ

「脳とセックスの生物学」ローワン・フーパー 新潮社
 行動生態学・性選択、英国人研究者、これほど条件が揃えば読まねば。


ぎっくり腰は昨日の午後あたりから、痛みは残っているものの、腰が伸びてきた感あり。しかし、すぐに無理するとくせになったり、ぶりかえすとのアドヴァイスを経験者から多くいただいたので、今週中はおとなしくしておきます。

同じ姿勢をとり続けるのが苦痛で、しばらく座って本を読んでいると、寝っころがって読みたくなる。こうなると重い本は、これは内容ではなくて文字通り重量のことだが、都合が悪い。
あいにくここのところ重い本ばかり購入していたので軽い本の在庫がない。仕方ないので家人の本棚を漁って、「世紀末の隣人」重松清 講談社文庫 をみつける。
この本の中に、大塚英志中森明夫宮崎勤の幼女連続殺害事件についての対話が引用してある。

中森 略〜父が父として機能しなくなったとき、家族はもう意味をもたない。子供は誰もが家庭内孤児になる。本来の孤児になる可能性からさえ捨てられ、つまり二重に捨てられるんですね。〜略

この内容についてなにか言いたいわけじゃない。ただ、これを読んでこの世代(まさに私と同世代だ)のコラムニストや評論家は、よくこの「二重になんとか」という表現を使う、と思っただけだ。流行だったのかな。なんだか、無理やり二重に捨てさせてるような気がしなくもない。

続けて大塚英志の「おたくの精神史」も読む。買ってぱらぱらめくって放置しておいた本だ。おもしろくてどんどん読み進むが、やはり、文体というか、言い回しがどうもしっくりしない。いちいちなにかひっかかる。私の中の何かが拒否する。この思いはどこに起因するものか。
この人の本は他に二冊しか読んでいない。最初「木島日記」を読んでおもしろくて、次に「キャラクター小説の作り方」を読んだのだけれども、この時も今回と同じような違和感を覚えた。
共通して言えるのは「僕には見えている」という主張かな。
「おたくの精神史」の随所に見られる、「当時は見え方が足りてなかったかもしれないけど、でも今はみんな見えてる」という印象が嫌なのかなぁ。同世代が「あがり」というスタンスでものを言うのを見るのが嫌なのかもしれない。

それにしても「新人類」という言葉のなんとなつかしくノスタルジックなことか。社会人になり、適当に「おじょうず」なんかも口にしながら、残業も厭わず、わりと自分では滅私奉公的に働いていると自負していたのに、何度か「君は新人類だなぁ」と言われ、むっとしたのを思い出す。いっそのこと名刺にも営業とか広報じゃなくて、新人類って刷ってもらえばよかった。
そういえば、この広報の名刺を持ってる頃、白夜書房英知出版、さらにマイナーな雑誌でちょろっとライターのまねごとをしてアルバイトしていたことがある。知る由もなかったがちょうど大塚英志白夜書房で雑誌作ってた頃と一致する。確かに彼の言う通り、当時は編集者一人で月刊誌一冊作るというのがHな雑誌はあたりまえで、日本語が書けて納期が守れるならもうそれだけでいいから、バイトしない?というまことにありがたい時代だった。