トリアングル 俵 万智著 byシジジイ

とりあえずメモしてみようかな。

とにかく気の重い小説だ。なにが気が重いといって、主人公のやることなすことわかりすぎる。まったくもってやれやれなのだ。
選択肢のふえた現代の女性のラブ&ジョブをここまで「ぶっちゃけ」ないでもいいでしょう、と思うのだが、それがこの小説の大きな価値でもある。
お酒の飲み方ひとつとっても、まるでこれは私のことですか?と言いたくなるようなわかりやすい飲み方を主人公がする。やれやれと思っていると歌人である著者の短歌が詠まれ、一息つく。よくできた構成だ。

話自体は、妻子ある年上のカメラマンMと、かわいいけど単細胞で一直線に結婚を望む年下の圭ちゃんの間で揺れ動く、といっても、最初から年下の彼には勝ち目がないのが見えてるのだが、そう若くはない女の身勝手な恋の起承転結である。
小説の冒頭、年下の彼にひかれ始めたとき、主人公は思う。
「自分がM以外に興味をもつなんて・・・」
ああ、わかるよ、そういうのって、すっごくわかるよ。大抵の女はここでそう思うに違いない。少なくとも私は思った。身勝手なのだが共鳴できるのだ。

この三角関係はまったくドロドロはしていかない。誰もそれを、おそらくは圭ちゃんですら望んでないからだ。一つのイスをみんなで奪い合ったりしないのだ。イスはみんなに用意されている。私のイスも、Mの妻のイスも、Mの子供のイスも、圭ちゃんのイスも。
そういうのは実にご都合主義的な解釈でしかないのだが、それを否定してはいまや恋愛は成立しない。

「Mが教えてくれたもう一つのことは、呼吸だ。重なりあうとき、深くたっぷり呼吸することが、どれほど自分の体を開いてくれるか、私はまったく知らなかった。むしろ、それまでは、くっと息をとめていたぐらいだ」
途中、身体の問題が何度も非常に正直に描写される。俵 万智という人はこういうことがわかってる人だったんだな。まあ、あたりまえだな、なんせ歌詠みだ。

かつて「サラダ記念日」でもずい分思い切った若い女の恋と失恋が詠われていたが、優等生的であるとの印象はぬぐえなかった。今も俵 万智は優等生だ。しかし、優等生だって40歳を過ぎれば、心だけでなく体の快楽もきちんと肯定し、受容し、さらなる快楽を求めるのだ。優秀な女であればなおさら、といえるかもしれない。

三十三歳という微妙な年齢の主人公の成熟の過程の物語なんだな、この小説は。
身体の問題、自己の快楽をはっきりと意識して肯定できるというのが成熟のひとつの目安であるとこの小説は語る。
セックスそのものよりも、終った後二人で和んでる時間が好き、というのよく聞くことではあるが、男か女か、もしくは共に未成熟であるともいえる。

さて、女性の選択肢が多様化するなかで、しかし、どうにもならないのが生物学的に子供を産めなくなる年齢が意外?とはやくやってくるということなんだが、男性というのはこのことがわかってるようでわかっていない。卵子がへたってくるのよ、といったところで、ある程度の年齢を越えた女性のDNAにせかされるような焦りは男性にはうまくは理解できないようだ。
話は意外にもというか、当然にというか、そこのところへ向かって収束していく。

毎日新しい精子を製造しつづける男、生まれた時にはすでに全ての卵子を体内にたずさえている女。そこらあたりに話が及ぶ時、少々しんどく小説として危うい橋をわたらざるを得ないのだが、敢えてそこへ正面から向かっていった俵 万智、おそるべしである。
小説って書き手の生きる姿勢の強さ、それは覚悟でもあるのだけど、必要です。

ラ・メゾン・ド・ショコラのチョコ、食べたい。

それから、あまりに偉そうなものいいになっちゃうんだけど、
「小説と恋愛にとってはまことに難儀な時代がきたものだ」