朗読ということ byシジジイ

十一月十三日の土曜日、駒場日本文学館で第39回「声のライブラリー」が開催された。これは年四回、選ばれた作家や評論家、詩人が自作の朗読をする会で、その様子はヴィデオで撮影され、貴重な視聴覚資料として永く保存されるというものだ。

今回は文芸評論家の桶谷秀昭、詩人の高橋順子、そして我らが師、作家の高橋昌男が朗読をした。ここでことわっておく必要があるが、作家高橋昌男が私に師と呼ばれるのを喜ぶかどうかははなはだ疑問である。やめてくれよ、といわれる可能性が非常に高いのだが、いいのだ、師はインターネットを嗜まれないので、ここで何を書こうが平気なのだ。

さて、トップバッターは高橋昌男、「夏至」(新潮社 1991)Amazonの朗読。弟子を名乗っておいてなんだが、私は残念ながらいまだ機会を得ずこの本を読んでいない。
この小説には「徳松」という名の実に嫌な隻眼の元巡査が出てくるのだが、たかだか20分ほどの朗読の間に、この嫌な男が微妙に変化をとげ、気がつけば徳松に感情移入している自分に気がつく。当然だが20分の間に徳松が改心したりかわいい男になるわけじゃない。師のいつもおっしゃる、小説の中の描写ということについて思い知らされるような20分だった。ただ起きたことを書いても、それがどんなにおもしろいことだったとしても小説にはならない、あたりまえだが。小説は偶然には書けない。小説を書こうという強い意志がなければ書けない。

次は詩人の高橋順子。作家の車谷長吉の奥様だ。いや、私にとっては高橋順子さんのだんなさんが車谷長吉さんなのだが。
この女流詩人の作品に「幸福な葉っぱ」Aamazonという詩がある。
この詩を読むのは初めてではなかったのだけど、次の一節にきた時、なにかこみあげてくるものがあった。詩人の言葉にはこんなにも力があるのかと、強い衝撃を受けた。

去っていったら
去っていったと思えばいいのだけれど
鳥ガ飛ンデイッタラ
鳥ハイナクナッタと

このごろ去っていきたい鳥に
行かないでと繰り返しているのは
九官鳥みたいな
言葉の覚えかたをしてしまったのかしら

わたしの九官鳥よ
もうお黙り

「九官鳥みたいな言葉の覚えかたをしてしまったのかしら」で、ぐっときてしまった。

高橋順子さんが、座談会の時、司会の樋口覚さんに「小説はお書きになる予定はなにのですか?」と質問され、ちょっと照れたように「車谷が生きてるあいだは」と答えてらしたのが、もう、たまらなくキュート。桶谷先生もメロメロ。

桶谷先生は、朗読はともかく、とにかくお話をなさるとおもしろくて、みんな爆笑。「予はなぜ小説が書けなかったのか」というお話は身につまされるものがあった。なぜ桶谷先生ほどの方が小説は書けなかったかというと、
「男がくるだろ、なんかしゃべる。そこへ女がきてなんかしゃべる。そこへもう一人男がきてしゃべる、この会話が書けないんだよ。リアリティがないというかね。会話が書けないと小説は書けなくてね、それでやめちゃったの」
それじゃ、素人そのままじゃないですか、先生!

座談会になってから、萩原朔太郎室生犀星の肉声の自作の詩の朗読テープを聞かせてもらえた。朔太郎がどんなふうに自分の詩を読むかなんて想像したこともなかった。肉声を聞けたというだけで感動。早口です。