龍宮

龍宮 (文春文庫)

龍宮 (文春文庫)

読むんじゃなかった。ショックだ。いや、ショックだなどというのはおこがましいとは百も承知だが。
丁度、自分が今、書きかけているものがここに書いてある。しかも、当然ながら、格段のうまさと明確さを持って。曖昧でゆらいでいるものを明確に描けるというのはこの人の才能で、なんともそれがうらやましい。


川上弘美の小説にはやむをやまれぬ感じがある。一見、別にこんなもの書かなくてもいいんだけど、というようなふりを見せながら、実はそうではなく、書かずにはいられない強い何かを抱えた人だと感じる。作家はみんなそういうものかもしれないが、その書かずにはいられないものの性質が自分と似ているような気がする。

年が近いせいもあるだろうし、もしかしたら、百輭が好きだということや、理科的なものが好きだという共通点がなにか作用しているのかもしれないのだが、この人の作品を読んだ後は、強烈にひきずられてしまう。文章のリズムとか、特有の肩透かしのタイミングとかが伝染してしまうのだ。あまりにひきずられるので、ここのところちょっと読むのを自分に禁じていた。それなのに、読書の愉しみに負けて久しぶりに手に取ったらもう最後、読み終わるまでやめられない。


収録されているのは八つの幻想譚。昔、蛸だった男は酒を飲んでいるうちにどんどんぐにゃぐにゃしてくるし、私の膝ほどの丈しかない霊言をおらぶ曾祖母は私の乳にとりついてはなれない。二百歳の私は七世代前の先祖と出合ってひとめ惚れし、社宅の台所では小さくてお顔が三つある荒神さまが走り回る。
中にはこれらの話はきっと暗喩だろうと、隠された意味を問う人もいるかもしれない。けれども、どこにもなにも隠されてなどないのだろうと思う。ここに書かれていることが全てなのだ。読者はここに書いてあることが全てだと納得するしかない。川上弘美の文章はそういうことを読者に強要する文章だ。その強要される感じには中毒性があって、新しい本が出ればつい読んでしまうのだ。


ねちねちと彼女の才能をうらやましがってばかりいてもしょうがない。それに、こうやってあれこれ書きながら考えていると、彼女の作品と私の書こうとしているものの間にある差異もまた浮かび上がってくることも事実だ。
いずれにしても誰も思いついたことの無い新しい話を思いつくなんて不可能だ。もう何度も繰り返されてきた話をいかに新しいスタイル、個性、シチュエーションで書くかということを考えたほうが現実的だ。(SF作家のグレッグ・イーガンのような奇想の天才についてはまた別の話だ)

さて、書きかけの作品に戻ってなんとか完成目指そう。(と、ここで宣言することで投げ出してしまわないよう自分を追い込んでみる)