夏の終わりは毎年辛い。夏ばてが年々ひどくなる気がする。今年はそれと腸炎が重なりビールを飲めないのでつまらないことこの上ない。特別に痛いところや不都合があるわけではなく、ごく普通の生活をしているのだが、私がお酒を飲まないとよほど具合が悪く見えるようで、いろいろな方にご心配いただくのも申し訳なく、情けない。春先からむやみと飲んでいたのでツケが回ってきたのだろう。

さて、本日のメモ。
K嬢のヨーロッパの歴史に題材をとった作品は、回を追うごとに上り調子で、書いてあることのイメージが明確になってきたので、あとニ回で終るのは惜しい気がする。勢いに乗って書くことの大切さを知る。歴史小説、とくに西洋のものは私にはなじみがなく、どうやって書くのか皆目見当もつかないのだが、今回の彼女の作品を読んでいて、もしかしたら宝塚のステージのシーンを追うように書いていくというのもありかな、とふと思う。これはK嬢がそうしてるというわけではなく、そういう方法があるかなと私が思っただけなのだが。

場面が頭の中に想像できるように書くためには、自分の頭のなかに非常に明確な絵が出来上がってないと難しい。ストーリーの曖昧さよりも、場面の絵柄が曖昧であるほうが問題が大きいと最近考えている。これから自分が書こうとしているものの遠景に芝居を使おうとしているので、余計にそう思うのかもしれない。

S氏の問題作(勝手に私が問題作であると思っている)は、一読してすぐに彼の過去の作品にくらべ文章が格段の進歩を遂げていると驚いた。先生も講評の初めに同じことをおっしゃったので、おお、私の読み手としての実力もばかにしたもんじゃないな、と喜んだのだが、それも束の間、私がここがいい!と特に思った二個所は、共に先生より不要であるとの指摘を受けてしまった。
不要であると指摘をうけた部分は、いずれも、描写ではなく心理を観念的に書いてあると私が感じた部分であり、それがかっこいいじゃないか!と思ったのだが、描写だけで書くべき部分を説明・解説してあり、小説的でないし、流れが止まっていきいきと続いていかない、とのことだった。

S氏の講評の際に、福永武彦の「草の花」の話が出た。主人公と藤木の戸田でのシーンをおぼろげながら思い出し、思えばあれが私の「萌えシーン」だったなあ、と苦笑。「草の花」と木原敏江の「摩利と新吾」が同列に並んでいた十代の私の頭の中。なんにせよ、こそばゆいほど古い話だ。

とにかく書こう、書こう、また次の提出日がやってくる。提出順のびりっけつ争いに今回こそ参戦しないぞ!
新たに参加者を迎えた上、幽霊部員が一時期より減り実質人数は大幅増。本日もきわめて盛況也。