無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

無能の人・日の戯れ (新潮文庫)

つげ義春夫人である藤原マキの『私の絵日記』を本棚で見つけて、ぱらぱら再読したら、久しぶりにつげ義春を読みたくなった。家のどこかにはあるはずだがいつものように見つからない。そんなときに限って本屋にいくと、なぜか「無能の人」が置いてあったりするのだ。抗えずふらふらと購入。

今までに知り合いの幾人かの男性が『無能の人』を読むと他人事とは思えないと言った。このだめさかげんが自分に似ていると。そこそこにだらしない友人たちだったので、その頃にはそんなものかもな、と思っていたが、今思うと、当時の彼らの言葉には「つげ義春の描く無能の人っぽいオレってステキ」的な虚栄心が含まれていたような気がする。(こんなことで虚栄心を満足させていた彼らもおかしいといえばおかしな人たちだった)


マンガを描けなくなって生活に行き詰った主人公が、河原の石を拾ってそれを売ろうとする話がある。オークションへ出品したものの当然だが全く売れず、出品料やらお弁当代やらで大赤字になり、仕方なく売れなかった石を背負って妻子を連れてとぼとぼ歩いて帰るのだが、そこで、とうとう奥さんは情けなさやら怒りが爆発して、売り物の石を投げ捨てて、「あんたにはマンガしかないのよ。ね、マンガ描いてよ。注文がなくてもいいじゃない、マンガ描いてよ」と泣き崩れる。

しかし、これほど妻に言われても、この作者が投影されたかのような主人公はおろおろと弱り果てるばかりだ。そして性懲りもなくまた石を探しに出かけたり、今度は中古カメラを売ってみようと考えたりするのだ。

つげ義春の描く男は、思想としての「無能の人」ではなく、根っからの「無能の人」なのだ。そこにはわざとらしさのかけらもないので読んでいる私もなんの屈託もなく、フフフとか笑って読める。
残念ながら、無能であれば「無能の人」になれるというものではないようだ。「無能の人」になるにも才は必要なのだ。それが証拠に、かつて「無能の人」が他人事ではないといった友人たちは、仕事を辞めることもなく家庭を持ち、子供を育て、「有能な人」として暮らしている。

すでに語りつくされた感のあるつげ義春について、長々と語ってしまってちょっと恥ずかしいなと、ここまで書いて気がついた。
しかし、無能の夫に向かって、「マンガ描いてよ」とすがりつく奥さんというのは良いなあ。夫の才や資質についてよくわかっている。ともすれば、現実的なアルバイトを見つけてこいとか向いてないことを言いそうになるものだ。

藤原マキの『私の絵日記』の最後には、ひりひりするようなつげ義春の「妻、藤原マキのこと」という語り下ろしが収録されている。

反発し合いながらも、同時に依存もしていたのではないでしょうか。だから先立たれてからは、僕はひどい喪失感、虚脱感を覚え、もう何をする気力もなくしてしまったような気持ちになっております。

私の絵日記 (学研M文庫)

私の絵日記 (学研M文庫)