苦慮していること

今年の最後にこんなことを書くのは、私の本意ではないのだけど、どうしたものかとここしばらく苦慮していることがあり、やはり、多少すっきりさせて新年を迎えたい気もしてきて、お節料理を作る手をしばし休めて、ここに書いてみる。


苦慮しているとは言っても、どこまでが本当の話かもよくはわからないのだ。
風の便りに、私がとある年下の女性のことを、「あの女むかつく。顔も見たくない」と言ってるのじゃないかと、その女性が疑いを持っていると聞いたのだ。
もちろん、私はそんなことは言ってない。しかし、言ってないことを証明するのは難しい。私がそんなこと言うわけないじゃない、と説明してみたところで、もうそういう疑いを持たれているなら無駄である。私の人徳のなさとあきらめるしかない。
それに、考えてみれば証明する必要もないといえばない。勝手にそう私を疑うのなら疑わせておいたところで、そう困ったことになるとも思えない。
そう考えてはみるのだけど、どうも、ずっとそのことが気になるのだ。


なぜ気になるのか考えてみたのだが、結局は「あの女むかつく」というような言葉を私が口にすると思われているのが嫌なのじゃないかと思う。それほど自分が上品で言葉遣いの美しい人間だと思ってるわけではないが、しかし、私たちの世代の女は「あの女むかつく」とは、なかなかリアルな言葉としては使わないものだ。
「ホント、むかついちゃうわ!」といった調子で、カジュアルには使うことはある「むかつく」だが、そんなシリアスな場面で本気で誰かを、むかつく、顔も見たくない、とは、なかなか言えないのだ。

こういう感覚は少し下の世代にはもうわからないかもしれないが、女性として使ってもいい言葉と使ってはいけない言葉というものがまだ厳然と私の中には存在している。これは話す内容ではなく、使う言葉の問題なのだ。
私は意地も悪いし、けっこう腹黒い人間でもある。自分が善良であるとは思っていない。だから誰かに対して憎しみを持つこともあるし、腹の底ではどす黒い思いがドロドロ渦巻いていることも多々ある。しかし、そうであっても「あの女むかつく。顔も見たくない」とは口にしない。これは身に染みている言葉のルールだから、そうそう破られることはないのだ。

だから、私が「あの女むかつく」と言ったと思われているということは、そのことを疑われているだけでなく、なにかもう私の全体像がひずんで理解されているというか、いかにもそういう言葉を口にしそうな人間として理解されているのだな、ということになり、なんともいえず気が重いのだ。言わないよ、そんなこと、ホント。


来年も小説を書いていこうと思う。言葉に敏感であろうと思う。とってつけたようだが、この日記を書きながら強くそう思った。