年賀状

今年もどうぞよろしくお願いいたします。
飲んだり食べたり、食べたり飲んだりしているうちに三が日が過ぎてしまった。


今年の元旦にほんの少ししか年賀状が届かなかった。毎年元旦には必ず年賀状が届く几帳面な友人や親戚からも届かず、どうしたのだろうと思っていたら、二日にたくさん届き、さらに三日にも年内に出したと思われる年賀状が届けられた。例年となんとなく届き方の様子が違う。それに、ずっと、二日は年賀状の配達はないと思っていたのだが、今年から配達の方法が変わったのだろうか。それとも、いつも帰省することが多いので気がついてないだけなのだろうか。


私は写真入りの年賀状が好きだ。友達や従弟妹からの年賀状の子供の写真を見ていると、もうこんなに大きくなったのか、とか、だんだんお母さんにそっくりになってきたな、と飽きない。長いこと会っていない学生時代の友人の面影を、お子さんの写真に見るのも楽しい。もちろん、家族写真ならもっと楽しさの幅は広がる。

毎年、どこかしらで家族の写真入り年賀状についての批判がくりかえされていて、ついうっかり読んでしまうのだが、そのたびに不思議な気がする。少なくとも年賀状をやり取りするような関係の知人の家族の写真を見て、どうしてイライラしたり嫌な気分になるのかな。
よくあるのは、自分が結婚してなかったり、子供ができないのに、そんな幸せをみせびらかすような年賀状は不愉快だ、私はあんたと友達だけど、あんたのダンナや子供とは関係ない、という論調のものだが、それはどうなんだろう。
私は自分があまり満たされてないときでも、そういう友人や親戚の幸せそうな生活を知らせてくれる年賀状をうらやましいと感じたことはあっても不愉快だと思ったことはない。
だいたい、わざわざ年賀状もらったのに、それにいちゃもんつけるっていうのはおかしくないかな。それって、いただいたお菓子がおいしくないと怒ってるのと同じじゃないかな。


去年あたりから、家単位の年賀状ではなく、自分の名前だけの年賀状をくれる女友達も増えてきた。子供も大きくなってきて、もう今さら家族全員の名前を連ねた年賀状が必要でなくなったのに加え、仕事等、個人としての活動を再開した友人が増えてきたからだろう。そういう年賀状にはもう写真はないけど、それはそれでうれしいものだ。