夏休み

八月六日、曽祖父と曾祖母は千田町で被爆した。曾祖母の頭には家の下敷きになった時にできた傷跡があった。曾祖母は幼い私に何度も「これがピカの時の傷なんで」と結った髪をほどいて頭を見せてくれたが、私はその傷跡より、髷ハゲが珍しくて、曾祖母の頭を見るのが好きだった。
母は疎開先から帰ってきて、9月初旬にはもう千田小学校で授業を受けたという。


バイトも新しい仕事の研修も一段落して、夏休み。明日から帰省。積読本の解消に努めたい。



八月六日についてのコメントをいただいたので、2004年8月6日の日記も貼っておきます。『夕凪の街 桜の国』についてはここです。

広島では八月六日の八時十五分には大きなサイレンが鳴る。
夏休み真っ最中のこの日、うっかりこの時間に寝坊しているとなんともばつが悪かった。布団から飛び起きて誰にともつかない詫びをいいながら黙祷したものだ。
小学生の頃はテレビも一日ずっと原爆特集で、古い記録フィルム等もずい分たくさん流された。ある時どうにも正視できない場面があり、テレビの前から逃げようとして母に、見なさい、と引き戻されたこともある。
最近では、式典の様子が放送されるだけになった。

当時一時間ほどかけて市内の私立中学に通っていた伯母は、彼女の言葉を借りればあの日も、東洋工業に鉄砲をつくりに行っていた。広島駅で汽車を降りたら空襲警報が出て、このまま家に帰ってしまおうかな、と考えていると、姉の友人にばったり出会い、
「ここまできたんじゃけい、行こうや」
と誘われ、それもそうだなと思い帰るのをやめた。このとき、広島駅に残っていたら伯母もどうなっていたかわからない。
工場について着替えている時に、光ったと思ったらそれはもう大きな音がして、怖くて、爆弾だととっさに思いその場に伏せたという。幸い、工場は爆心地からは遠く直接の被害はなかった。

伯母はお友達と山の方を遠回りして大きく市内を迂回し、家を目指した。途中、少し高いところから市内が燃えているのが見えたそうだ。トラックが黒焦げの木材を積んでいると思ったら死体だったことや、多くの苦しんでいる人を見たこと、兵隊さんがいたこと、雨が降ったこと、それらをいつどこで見たのか記憶は定かではないという。あたりまえだ、何しろピアニストになるのが夢の14歳の少女だったのだ。

途中、お友達の家に泊めてもらい、翌日やっと家の最寄の駅につき、疲れ果てとぼとぼと歩いていたら、男手のない家のことを手伝ってくれていた男性が伯母をみつけ、
「お嬢さん、よう帰ってきちゃった、よかった。早う帰ってあげてください、お母さんがずっと門のところで待っとってです」
と教えてくれた。
伯母はそれを聞いて初めて涙がでたという。それまで泣くことすら思いつかなかったと。走って帰ったら大手のところに、日頃は病弱で家事もほとんどできず、寝ていることの多かった母親が待っていてくれたそうだ。夜も寝ないでずっとそこで待っていたのだそうだ。

門のところで待っていた私の祖母はそれから間もなく亡くなった。
伯母は昨年末、乳がんがみつかって手術した。

伯母と逆のコースをたどったのが大叔母の夫だ。当時、神戸で焼け出され、妻の実家に身を寄せていた大叔母の夫は軍医であったので、原爆投下後すぐに救助のため市内に入り、11月に苦しみながら亡くなった。
その話を何度もしてくれた大叔母も昨年亡くなった。

私など原爆について語る経験はなにもないのだが、もしかしたら、このような話を被爆者やその家族から直接聞いていることすら、だんだんに希少なことになりつつあるのかもしれないと思いここに記す。