スカイ・クロラ

オープニングの短い空中戦に続く雲のシーンで、もうこの映画に取り込まれてしまった。雲がスクリーンからはみだしてくる、と思わず身をのりだした。そこに雲が漂っている。
このオープニングの段階で、もう一度観に来ようと決めた。
少し間をあけて、二回目に観たときも、この雲のシーンで身体に覚える不思議な感覚は同じだった。


話の内容は、マッチを折るとか、新聞を畳むとか、そういう特別なクセが早い段階で繰り返されるところで、だいたい想像はついたし、ティーチャーには絶対勝てないないとか、腕が良くて長生きするエースパイロットのほうが悩みが深いとか、ティーチャーを見たら追いかけずにはいられない習性? だとかで、キルドレって消耗品なのかと、カズオ イシグロの小説とか、ブレードランナーとか思い出して、勝手に納得してしまった。
話がわかりやすいおかげで、後は余計なことを考えずに、ひたすら空中戦と犬とが出てくるのを待てばよかった。

時々出てくる、少々くすぐったいセリフも、いちいちすごく気にいった。
「気をつけるって何に?」とか「明日死ぬかもしれないのにおとなになる必要があるのかな」とか。


キルドレはかなり短いサイクルで再生を繰り返している。それにはちょっと驚いた。少し長く生きると、攻殻機動隊でいうところの「ゴースト」が生じて、パイロットとしての性能が落ちるからかもしれない。「ゴースト」が生じたパイロットは引き寄せられるようにティーチャーを追撃して、撃墜される。そういうプログラム? 
この映画は、その繰り返されるサイクルの一回分だけを取り出して描いたものなのだが、そういう設定をわかってみると、水素の特異さと、整備主任の笹倉さんの強靭さが際立つ。
二回目に観ている途中で、一瞬、瑞季の父親ってティーチャーなのか? と考えてしまったのだが、やっぱ、ここは何代か前のユーイチなんだろうな。だいたい、ティーチャーが人間かどうかわかったもんじゃない。
後半の大作戦の片のつけかたも、なるほどなあ、と思った。力の均衡が管理された戦争であるだけでなく、あの停戦は、「本日の予算、使いきりました」ってことだったのだろうな。キルドレ一体がいくら、単発機一体がいくら、双発機はいくら、大型爆撃機はいくら……戦闘員の値段が決まっている戦争を経済的に管理するのはたやすい。
なんてことを、アニメみて、つらつら考えていると、私ってば、いい年してなにをやってるんだろう、とおかしくなる。好きだからとしか言いようはない。
ほんとは考えるヒマがあったら、原作読んだ方が早いのかもしれないけど、でも、考えるの好きだからいいの。


大げさだけど、ただ普通に暮らしているだけで、何かが消耗してしまい、足りなくなることがある。
足りないものが何なのかわからない。
だけど、そういうときに、ある種のアニメとか、映画とか、SFとか観たり読んだりすると、その足りないぽっかりあいたところに、水が注ぎ込まれるようにダァーっと何かが流れ込んできて、一息つく。
いくつになっても、その繰り返しだな、と思う。別に、私はそれほどアニメファンじゃないし、映画だってポツンポツンと観るだけなんだけど。
足りないのは、興奮、なのかな。
高揚する気持ち?
足りないって言うよりも、フラットになりすぎてしまうのかもしれない。