阿修羅展

去年の夏休み、滋賀、京都、奈良と六日間かけて旅行した。
私にとっては滋賀だけが未踏の地で、後は「青春の思い出」を再訪する旅だったのだが、娘も中学生だし、そろそろ彼女にも「青春の思い出」を作ってやろうというおせっかいな親心の旅だ。
毎日、国宝と重文を拝み続けたわけだが、やはり、阿修羅像というのは特別な存在のようで、そろそろ旅の疲れに文句のひとつもふたつもみっつも出始めていた娘も、ずいぶん長いこと見入っていた。


旅の帰り道、「とうぶん、仏像と神社仏閣は見なくていい」と文句を言っていた娘だが、今回の上野での「阿修羅展」を知ったとき、すぐに、阿修羅像の後ろ頭が見られるってこと?! と声をあげた。
全くその通りで、三回阿修羅像を見た私も、後ろ頭は見たことがない。
しかも、興福寺の国宝館ではガラス越しであるのに、今回はガラスケースなしだという。


春休みが終わるのを待って、昨日、娘と一緒に上野へ行ってきた。
三時過ぎについたが20分待ちの表示。
でも、実際には10分も待たなかったような気がする。
待っている間、日傘を貸してくれる。気がきいている。
アナウンスによると毎日一万人が来館しているとのこと。
昭和27年に、日本橋三越に阿修羅像が来ているのだけど、このときは、三週間ほどで50万人が押し寄せたとのことなので、そのときに比べたらたいしたことない混雑なのかも。
阿修羅像が奈良を離れるのは、このとき以来。


実は、娘も私も、興福寺の国宝館より、条件のいい照明下で、遠慮なくあからさまに博物館的にがつがつ阿修羅像を見ることができるのではないかと期待していたのだが、妙にニュアンスのついた美しいライティングで、幻想的できれいではあるが、ちょっと期待はずれだった。
むしろ、興福寺で見るほうが生々しい阿修羅像だ。
娘の見たがっていた後ろ頭だが、写真で知っていても、360度ぐるっと回りながら見ると、そうか、耳があんな方向でついているのか、とあらためてそのおさまり具合の絶妙さを発見する。


先日、サントリー美術館の「三井寺展」に行ったときも、如意輪観音菩薩坐像の三本の腕のつき方の自然さに感心したのだが、阿修羅像も真横から見ると、三本の腕の肩からの出かたになるほどなあ、と思う。無理がないのだ。これなら三本ともきちんと動かせそうと思う。


阿修羅以外の八部衆十大弟子も露出展示で、こちらは、いいのかしらん、と思うほど間近で見ることができる。

帰りに、1階のフィギュア売り場をのぞくと、お一人様二個だったと思ったが、たいそうな人気のようで、お一人様一個になっていた。
ついつい予約してしまった。



追記
阿修羅像の照明については、たいへん評判がいいようだ。
白く光るライティングは、確かにかなり検討され、工夫したものなのだろう。でも、いいのかな、あんなに博物館が演出して。お寺が幻想性を演出で強調するのはいいと思うけど。
それと、入場前にも、入場後にも、少々うるさいほどに写真撮影はできません、とアナウンスされていたのだが、きっと、あまりに写真を撮る人が多いのだろう。