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阿川弘之が亡くなった。
『春の城』を読み返したいと思い本棚を探したがみつからなかった。
『雲の墓標』と並んでいる背表紙をありありと思い出すのだが、考えてみれば高校生の頃に読んだのだから、実家の本棚の記憶なんだな。
高校の頃、英語の成績があまりに悪いので塾に行くことになった。
アパートの一室に高校生が五人ほど集まって自閉症の女の子について書かれた英語のテキストを読解していくという、今思えば受験勉強に役に立ったのかどうかわからないような高度な授業だった。学校の英語の授業以上についていけなかった。
そこで教えていたのが楠本先生で、どこの大学だったのか英文科の教授ということだった。
私が部活動は文芸班だと知ると楠本先生は、書いたものを持ってきなさいとおっしゃった。部活動で出していた文集『紫苑』をおそるおそる渡した。私は当時富岡多恵子や金井美恵子の影響をもろにかぶった詩を書いていた。
大人に詩を見せるのは初めてだった。
楠本先生は、私の書いたものを誉めてくれた初めての大人で、私が何かを書くことを毛嫌いしていた母に向かって、「お嬢さんの詩はとてもいい」と言ってくださったのだけど、もちろん母はそんな言葉には耳を貸さなかった。
楠本先生は時々「活動の足しにしなさい」とか「みんなでお菓子でも食べなさい」といって文芸班にカンパをくださった。そんな大人がいることにもびっくりした。
ある時、楠本先生は「ぼくもね、高校生の頃はいろいろ書いていてね、たまによく書けているとね阿川が拾って載せてくれてたんだよ」とおっしゃった。「阿川は、やはりとびぬけてうまかったよ」
先生の広高時代の思い出だった。
本の中でしか接したことのない旧制高校や阿川弘之が、一度に目の前に展開されて、高校生の私はうまく反応できなかった。
幸い、その年の楠本先生の生徒五人は全員志望校へ合格した。
入学のために上京する直前、楠本先生のところに挨拶にいった。
「ずっと君は詩を書くといいよ」と言ってもらったが、その頃もう詩は書けなくなっていた。
「ぼくの論文の序文ができたので読んでください」とホッチキスで綴じた小冊子をくださった。
『呪われた血の叛逆詩人--George Gordon Byron.』
楠本先生がバイロンの研究者であることをそのとき初めて知った。