宝物

またまた新入生を四人も迎えた。といってもやめた人も二人いるのだが、それでも最近は少し遅くに教室に入ると座る場所を探してしまうほどだ。

今回は先生のお話ではない。
最近入った某氏の話。三十代半ばの男性。今回、初めて講評の番が回ってきた彼を中心にして授業後ラウンジで珍しくまじめに小説を書くことについて数人で話をしていたら、彼がこう述べて、一同数秒の間黙ってしまった。
「読んだ人の心の宝物になるような小説が書きたい」
居合わせた数人が黙ったにはそれぞれの理由があったとは思うが、とにかくはこのまっすぐな外へ向かう言葉に仰天してすぐには反応できなかったのではないかと思う。少なくとも私はそうだった。

自分の書いたものをおもしろいと思ってもらえたらいいな、共感してもらえたらいいな、と思うことは多々ある。しかし、読んだ人の宝物になるなんて発想は微塵もなかった。そもそも読者というものが書いている最中にそこまで認識されていない。せいぜいが、こういう書き方でわかってもらえるかな、という程度だ。

私は興味が自分の内へ内へと向かうほうである。私にとって小説を書くというのは例え妖怪の話を書いていても、多かれ少なかれ自己の開示であるし、やむにやまれぬ部分もないわけではない。どう転んでも私の書いたものにはどろどろした「わたし」というものが含まれているわけで、それが誰かの宝ものになるなんて思えない。それどころか、いつも読んだ人は嫌な気持ちになったりするかもな、とまったく逆の心配をしていたりするのだ。下手だからということだけではなく、自分の書いたものを読んでもらうとき「申し訳ないけど読んでみてもらえるかしらん」と言いたくなるのはここらへんにその原因がある。
それだけに、今回の某氏の発言には返す言葉もなく驚いてしまった。どんなものを書きたいのか、ということではなく、自分の書き上げたものが外部に向けて及ぼす効果についての希望が先にあるなんて、事の是非ではなく、ただ驚いたのだ。

小説を書きたいというたったひとつの共通項をもった、年齢も経歴も様々な人々が教室に集まり、それぞれが思いもつかない理由で小説を書いている。
先生、いろいろなことがありますね。