二月十八日 久坂葉子

あいかわらず先生は手厳しい。しかし、厳しいほうが楽しい。いや、自作の講評が回ってきたときには、楽しいなどということもできず、うなだれて、ここに何かを書くことすらできないのかもしれないが。


今回は手記と小説の差異についてのお話があった。

同人雑誌に必ず「闘病物」と「嫁姑物」は出る。しかし、そのほとんどが、手記であって小説ではない

模写をしているのではない。模写するならば写真をはっておけばいい。現実のベールの奥にあるものをあばくのが文学である

先生は、具体例として、島尾敏雄の「死の棘」をあげられた。
私は最近読んだばかりの、久坂葉子を思い出した。

幾度目かの最期 (講談社文芸文庫)

幾度目かの最期 (講談社文芸文庫)

久坂葉子は読みたいと思いつつ、なかなかそのチャンスのなかった作家で、今回初めて読んだ。
作品集の最初におさめられた「四年のあいだのこと」を読み始めてすぐに、ああ、高校生の頃に自分が書きたくて書けなかったものがここに書いてあると思った。
あの頃、なにかじりじりとしていて、しかしその正体がなんであるのかわからず、わからないながらもそれを文字にして発散したかったのだが、一行として自分が書きたいものなど書けはしなかった。もし、あの頃の自分がこの小説を読んでいたら、ああ、これよ、これ、私はこういうのが書きたいのよ、とマネをしたに違いない。
久坂葉子の作品は、あの頃読めばよかったと思うと同時に、手垢をつけずに今日まできてよかったとも思う。今、これを新鮮なまま読める喜びも大きい。

この作品集の中では「灰色の記憶」にもっともひかれる。作者の幼少期から二十歳までの成長記録であり、ここにあるのはまさに久坂葉子自身ではあるのだが、これこそが、先生のおっしゃるところの手記ではなく小説であるのだろうと思う。

今、年譜を見ていて気づいたのだが、「はじめて久坂葉子なる名前を附した」作品「港街風景」を持参した相手が、島尾敏雄だった。そしてその紹介で富士正晴の指導を受けるようになったとある。島尾敏雄の話が出たときに、久坂葉子を思い出したのも故なきことでもなかったようだ。