グレート・ギャツビー 村上春樹訳

村上訳を読む。
野崎訳では若い頃から何度も繰り返し読んでいて、再読回数ではこの小説は私の中ではかなり上のほうにランキングされる。


野崎訳は会話文にひっかかるところが時々あって、たまに読んでいる途中で、物語の中からひきずり出されるのが難点ではあったが、他には特に不満もなく、わかりづらいと思うこともなく読んできた。
ところが、村上訳を読むと、ものすごくわかりやすく、途中でわれに返ることなくひたすら物語に没入することができる。語り手の僕が特に理解しやすくなっている。


物語に身を任せることができるという意味において、新訳は非常に良いのだけれど、ただ、語り手の僕が村上春樹の小説に登場する若い男と重なり合うので、いまにもスパゲティをゆでたり、端正なサンドイッチを作りそうな感じがしてしまうところが、いいのか悪いのかわからない。
しかし考えてみれば、村上春樹にとってこの物語が不可欠な一冊だと本人が繰り返し語っているのだから、当然、この物語の語り手である僕は村上春樹の小説の登場人物の原型であるとも言えるわけで、そう考えると、「語り手の僕」と村上作品の登場人物が重なることは、作家にとって大切な一冊に出会うことがどれほど重要な意味を持つことなのか、ということの証明ともいえる。

ひとつ不満があるとすれば、野崎訳に比べ、村上訳は戦前のアメリカの物語を読んでいるという異国情緒が足りないことかもしれない。でも、これは、訳者の責任かどうか私にはわからない。


それにしても、この小説を読む度に泣いてしまう。年をとって涙腺がゆるんでいるので、若い頃よりもっと泣いてしまう。
ギャツビーは、デイジーの夫トムにデイジーが愛しているのは自分だけだと認めさせようとして、デイジー自身に夫に向かって一度たりとも愛したことはないと告白させるのだが、その後で、デイジーが「ああ、あなたはあまりに多くを求めすぎる」とギャツビーに向かって叫ぶシーンがある。
ここを読むたび、反射的に鼻の奥が熱くなる。しかし、それなのに、いつになってもこのシーンを一体私は誰に感情移入して読んでいいのかわからないのだ。
この後デイジーはこう続ける。
「私はこの今あなたのことを愛している。それだけでは足りないの?」
それじゃ、足りないのよ、と私はデイジーに教えてやりたい。
そしてさらにデイジーは続ける、「過去にあったことは変えられないのよ」
私はギャツビーにデイジーの言うとおりだと言ってやりたくなる。


私はギャツビーにも、デイジーにも、語り手のボクにも大きく肩入れすることができない。それなのにこの小説を何度でも読んでしまう。そして泣いてしまう。このひと夏の物語に感情移入しているのだろう。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)