先生の新作

今年明けて初めての講義なのだが、もう新年のご挨拶をするにはいささか遅く、どっちつかずの締らない挨拶をみなさんにしてしまう。それがなんとも子供じみていて、早々から恥ずかしい。

作品提出日だったのだが、今回は間に合わず、29日の最終締切までに送ることにする。私だけでなく、今回は間に合わなかった人が多いのか5作品しか提出されていない。先生から仕事が忙しいとか、家のこととかいろいろあるだろうが、しっかり書くようにとのお言葉。自分で小説を書こうと通い始めたお教室なのだから、書かなくてはなにも始まらない。私もここのところのごたごた続きを書いてないことの言い訳にしていたが、せっかくの練習の場なのだから、書けないなりにも書かないとな、と思い直す。


先生の最新作、十五枚の掌編小説『糺の森』が「表現者」(イプシロン企画出版)第十号に掲載されている。
表現者」は西部邁が顧問を務める保守系の雑誌(私はどうも思想とか主義とかがよくわかってないので、こういう説明でいいのかどうか自信がない)で、編集長は文芸評論家の富岡幸一郎とのこと。


無理を承知でちょっとだけ『糺の森』を紹介してみる。

仁科は、谷崎潤一郎の『夢の浮橋』をカバンに入れ、大阪で食道がんの手術を受けた旧友を見舞った後、かつての道ならぬ恋の相手と七年ぶりに会い、散策と京料理でも愉しもうと古都を訪れる。翌日、糺の森で『夢の浮橋』について熱弁をふるう仁科に女は不思議な申し出をする。そして、糺の森にあるはずもない『夢の浮橋』の舞台である五位庵が浮かび上がった。

先生は、15枚で小説を書くのはとても難しかったと何度もおっしゃっていたが、既に『糺の森』というタイトルで読者に京都、それも少々特別な京都を思い浮かべさせることに成功しており、短編小説の書き方の極意をかいま見せてもらった気がする。そういえば、私はもう三ヶ月ほど、ずっとタイトルに悩んでいるのだった。


ところで、タイトルには「糺」に「ただす」とルビがついている。なぜ、こんなところでことさらのようにルビの話をするかと言うと、実に恥ずかしい余談になるのだが、この「糺の森」という字をみると、知っているのにすんなり読めないからだ。何度でも「れいの森じゃなくて、あー、あー、あ、ただすの森だ」と読むまでに時間がかかる。同じような現象が起こるのが「出自」だ。これも、「でじ」と読みそうになるのを押さえて「しゅつじ」と言うので、ワンテンポ遅れる。大体が漢字に弱いのだ。「彌縫」にいたっては「彌縫策」という言葉を平気で会話の中では使うにもかかわらず、時々読めなくなる。最近、あまりに自分が漢字を知らないので、小さなノートに知らない漢字や言葉を見たらメモするようにしているのだが、なかなか使える漢字は増えてはいかない。そうこうしていると、「邂逅」を「わくらば」と読むなんて話題が出てきて、もう書けない読めないのお手上げ状態だ。


話が横道にそれてしまった。戻そう。
といっても、読み始めれば、最初の1ページほどで、この物語を読み進めるのに過不足のない説明がスマートに手際よく語られ、そして、もうそれさえ読んでしまえば、後はなにも考えることなく物語に身をまかせているうちに、主人公と共に夢の浮橋を渡り五位庵へと流れ着く、という寸法である。

しかも、読みおわり、余韻がさった後には、急に読書欲が湧き、作中にちりばめられた谷崎や川端の小説を読み返したくなったり、まだ読んでいないマルケスの『わが悲しき娼婦たちの思い出』を読んでみようかな、という気にもなる。


常々先生には講評をしていただき、様々なことを教えていただいているわけだが、そうしたいつもおっしゃっていることが集約され、体現されているご自身の作品を、こうして読むことが出来るのは実に幸せなことである。現役作家に教えを乞うているからこそ体験できることだ。私には似合わない少々優等生めいたセリフで照れくさいのだが、このチャンスから多くを学びたい、と切に思った。