寒い間にしたことといえば、『フューリー』観たり、岡崎京子展行ったり、『アメリカン・スナイパー』観たり。
他にも展覧会は行っているのだが、じゃあ、なにがよかったかと問われるとよくわからなくなる。
三井記念美術館の「東山御物の美」が印象に残っている。


昨年十月に応募した新潮社のR-18文学賞
前回は二作が一次通過したものの、そこまで。
今回は、二作応募して、一つは一次も通過しなかったが、一次で残った方が、二次通過した。
もう一生、一次通過止まりかとあきらめていたので、二次通過の20作品に残ったのはたいへんうれしかった。
でも、これが私の小説の頂点かもと、早くも思い始めている。
年を取ると、苦しいこともうれしいことも長続きしないものだ。


ラッキーなことも起きた。
イースト・プレスから出ていた『嘘みたいな本当の話』が、三月に文春文庫になった。
内田百輭に似たおじいさんの話が載っている。
自分の書いたものが、短いとはいえ文庫に収録されるというのはびっくりするような幸運だ。
しかし、これまた、神様が最後にくれたプレゼントかななどと思ってしまう。

ダメじゃん、あたし

久しぶりにアンテナであちこち巡回して思った。脳が強い人は、SNS大流行の今もちゃんと長い文章を書いているんだな。そして、そういう人は、SNS上でも、さらりといかしたこと書いてる。
いろいろなものを合わせてみても、総量として、文字を書く量が減っている。
読む量も減っている。


今読んでいるのはこれ。以前は、もったいないのでチビチビ読んでるなんて言ってたが、今はもう、常にチビチビ状態。年寄りの晩酌的読書である。

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

そしてこれ。

霧に橋を架ける (創元海外SF叢書)

霧に橋を架ける (創元海外SF叢書)

気が小さいので、幹事のような立場に置かれると、みんながちゃんと食べてるか、飲んでるか、楽しく会話できてるか、遠慮している人はいないかみたいなことが気になって、自分はあまり食べる気持ちにならないし、注文も自分の好みを通すことができない。お会計のお金が足りないとついつい自分の財布から出しちゃうし。
つくづく幹事のような役割が向いてないなと思うのだが、他人からは好きでやってるみたいに思われることが多い。

泣く女

わりとよく泣く。電車の中から桜を見つけて、その瞬間、なにが脳の中で喚起されるのかよくわからないが泣いたりする。小さな犬がおばあさんと散歩しているのを見て急に泣くこともある。メダカが泳いでいるだけでじんわりすることもある。年を取って涙腺が弱ったのか、くたびれた脳が誤反応しているのかよくわからないけど、誰に迷惑かけるわけでなし、他人の視線が気になることもあるけど、仕方ない。
でも、こういう涙を流すのは、情緒が不安定で、感情をうまくコントロールできていないということなのかもしれない。
嘘泣きするのも、感情をコントロールして涙を抑えるのも、元は同じような能力によるもののような気もする。他人の評価をどうこうしようとする行為でもあるわけだし、どっちが立派ということもないような気がする。
泣くのをこらえれば気丈と讃えられ、わんわん泣くのは幼いと呆れられることが多いが、そんなこと他人の言うことでもない。
泣きたい時に泣いて、面白くない時に面白くない顔をしていたい。


ヘッセの『デミアン』だったかな、友だちの前で堂々と泣く青年が出てくるシーンがあって、中学生の私は、いいな、と思った。

あの時ああしておけばよかった

自分に言われたわけでもないのに「あの時ああしとけばよかった、とかいまさら言ってもしょうがないでしょう。昔のこと言っても仕方ないでしょ」という言葉を聞いて、むっとする。
「あの時ああできなかった自分」を検証しておかないと、今度もまた「あの時ああしておけばよかった」ということになるってどうして思わないのだろうか。
あの時ああできなかった自分から進歩することなく、一生、「あの時ああしとけばよかった」って繰り返すなんて、私はやだな。

本当に久しぶりに100枚を超えそうな小説を書いている。
短いものはいくつか書いていたが、もう、長いものは書けないのかもしれないと思っていた。

突然思い立って小説を書き始めたばかりの頃、高橋昌男先生の言葉ひとつひとつが宝物だった。ずっといつも覚えているつもりだったけど、覚えてはいても薄まっていたような気がする。

小説は演説してはいけない。
小説は説明してはいけない。
小説は描写しなくてはいけない


据えっぱなしのカメラの前を登場人物が行ったり来たりしているような小説では深まっていかない。


自分が書いてるときは、なにも読んじゃだめだぞ。君なんか、読み散らかしているんだろう。だめだよ。書いてる最中に読むと優越感持つか劣等感持つか、どっちかなんだから。


文章というのは、読み手を常に意識して相手に伝わるように。


同人雑誌に必ず「闘病物」と「嫁姑物」は出る。しかし、そのほとんどが、手記であって小説ではない。


模写をしているのではない。模写するならば写真をはっておけばいい。現実のベールの奥にあるものをあばくのが文学である。


日本の小説は淡々と書くのが美徳かのような思想があるが、たまには脂っこいものも食べたいし、美味しいじゃない。だから、あまり淡々と書きすぎないように。


そして、特に大切に思える二つ。

少々体裁が悪くても、書きたいものを書く勉強をしなさい。


恋愛小説、いいじゃない、小説の王道だよ