あの時ああしておけばよかった

自分に言われたわけでもないのに「あの時ああしとけばよかった、とかいまさら言ってもしょうがないでしょう。昔のこと言っても仕方ないでしょ」という言葉を聞いて、むっとする。
「あの時ああできなかった自分」を検証しておかないと、今度もまた「あの時ああしておけばよかった」ということになるってどうして思わないのだろうか。
あの時ああできなかった自分から進歩することなく、一生、「あの時ああしとけばよかった」って繰り返すなんて、私はやだな。

本当に久しぶりに100枚を超えそうな小説を書いている。
短いものはいくつか書いていたが、もう、長いものは書けないのかもしれないと思っていた。

突然思い立って小説を書き始めたばかりの頃、高橋昌男先生の言葉ひとつひとつが宝物だった。ずっといつも覚えているつもりだったけど、覚えてはいても薄まっていたような気がする。

小説は演説してはいけない。
小説は説明してはいけない。
小説は描写しなくてはいけない


据えっぱなしのカメラの前を登場人物が行ったり来たりしているような小説では深まっていかない。


自分が書いてるときは、なにも読んじゃだめだぞ。君なんか、読み散らかしているんだろう。だめだよ。書いてる最中に読むと優越感持つか劣等感持つか、どっちかなんだから。


文章というのは、読み手を常に意識して相手に伝わるように。


同人雑誌に必ず「闘病物」と「嫁姑物」は出る。しかし、そのほとんどが、手記であって小説ではない。


模写をしているのではない。模写するならば写真をはっておけばいい。現実のベールの奥にあるものをあばくのが文学である。


日本の小説は淡々と書くのが美徳かのような思想があるが、たまには脂っこいものも食べたいし、美味しいじゃない。だから、あまり淡々と書きすぎないように。


そして、特に大切に思える二つ。

少々体裁が悪くても、書きたいものを書く勉強をしなさい。


恋愛小説、いいじゃない、小説の王道だよ

料理

今日から新学期。ここのところのちょっとした休暇はおしまい。仕事の帰りは遅くなるので出勤前に夕飯を作っておくことが多い。
昨日の夕飯は、無理やり名前をつければ「大根と豚肉とネギの中華風煮」のような料理が主菜だった。それがまだ残っているので、今日はスペイン風オムレツを新たに作り足すだけにした。
お味噌汁も作っておいた。組み合わせとか、統一感とかいつも無視。娘が「うちの夕飯ってアバンギャルド」と言う度に、アバンギャルドって最前線先行部隊のことだと言って嫌がられる。
いつまでこうやって夕飯を作り続けるのだろうと思うと、クラッとすることがある。
夕飯を、せっせとFacebookとかにアップして、みんなに「いいね!」って言ってもらえば、もう少しやる気も出るだろうか。いやもう、それもダルくてできない。
若いころ、有名な料理教室に通っていた。嫁入り道具の一つだったので、有名であることが大事だった。なかなか結婚出来なかったので、気づいたら師範免許をもらっていた。大学四年間の授業料より、この料理教室に四年通った費用の方が高い。
なにかと料理をしてきたが、料理が好きかと言われると、どうだろうと思う。
掃除や縫い物より好きだけど、他にもっと好きなものはたくさんある。しかし、私があれこれすることの中で家族が喜ぶのは料理だけである。


生協の箱を溜め込んでいて、今、生協の配達のお兄さんに、かなり嫌な顔されて叱られた。食品を入れるものなんで、早く返してください。ごもっともである。なにか彼の仕事を増やしたのかもしれない。子どもが大きくなったら生協はやめようと思っていたけど、自分が年を取ったので、大根とか白菜とかビールとか重い物を持ってきてもらえるのが楽ちんでやめられない。日に日に、あれもこれもダルくなっていく。

創作ではなくて、ちょっと考えたことを書いておきたいなと思うとtwitterじゃ短いし、Facebookは窮屈だし、やっぱ、ブログなんじゃないのかなと思う。
今、twitterでうまいこと言うたった、みたいなドヤ顔一言居士おじさんたちって、ブログ書いてる頃の方が、みんなかっこよかったよ、って私は思う。年取って書けなくなったのかな。
FBでうまいこと発信している人たちもいるけど、そういう人はたいていフォロワーが多くて、ブログ化しているよね。
フォロワーが少ないと、はしょって話しても共有してるものが多いから言いたいことはよく伝わって、いいね!いいね! はもらえるけど、それって内輪受けだよね。文章は、内輪じゃない人にも伝わってなんぼかな。伝えたい相手を予め絞るのではなく、自分が書くもので絞るというか。
とかいいながら、自分もここを放置してるわけですが。


唐突ですが。
自分が何者かになりたいと思いつつ、何していいかわからない二十代、三十代、もしかしたら四十代の既婚男性にとっても、マイホーム主義とか育児参加とかって、格好の逃げ場になってるような気がして仕方ない。
何をしていいかわからないからまず家庭を大事にする。
それのどこが悪いと言われると窮してしまうが、世の中ってそれだけでおもしろくなるのかな。快適になるのかな。
女性にも同じようなことは言えるのだけど、それは、またちょっと違う問題に発展してるので、また今度整理してみよっと。

NASA「ボイジャー1号は太陽系の端に到達しつつある」

ここから先はもっと寂しい旅になる。
などと、擬人化してもしょうがないのだけど、子供の頃に「永遠」について考えたときに覚えていた感覚を思い出した。
あの頃考えていた「永遠」を1977年から飛び続けているボイジャーが超えたということなんだな。

【6月28日 AFP】1977年に打ち上げられた探査機「ボイジャー1号(Voyager 1)」は現在、太陽系の端に到達しつつあるものの、太陽の磁場の影響から逃れるにはあと数か月から数年かかると、米航空宇宙局(NASA)が27日、米科学誌サイエンス(Science)に発表した。

 一方で同機は、太陽圏の外に広がる恒星間領域に到達する前の、最後の空間に当たる「磁気ハイウエー」と呼ばれる未知の領域に関する豊富なデータを、地球に送り続けているという。27日のサイエンス誌に発表された3本の論文は、この領域について報告している。

 ボイジャー1号は昨年8月25日、太陽から180億キロメートル(太陽と地球との距離の122倍)の位置で、この磁気ハイウエーに到達した。(c)AFP

http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2953035/10972902?ctm_campaign=txt_topics

kindle

Kindle Paperwhite を買ってちょうど一ヶ月。
ソフトの充実という問題をひとまず置いておくと、電子書籍で読書をするというのは、実に快適。
電車の中と、ベッドの中での読書が特に快適。
苦痛だった遠くの仕事場への通勤日も、「さあ、読書タイムの始まりだあ」って感じに、むしろ楽しみになってきている。
この二つの場所での読書時間が増えたおかげで、最近大幅に減っていた読書量が増えた。
この一ヶ月で購入した電子書籍は15冊。読了11冊。


どうしても欲しい本というのもあるけど、読みたいけど、買うとまた本が増えてしまうから、どうしようかなと迷ったまま読んでない本というのが案外多い。
こういった本をkindleで探しては読んでいるのだが、これが、なんというか、小中学生の頃の、学校の図書館や田舎の本屋で、少ない品揃えから面白い本を見つけては片っ端から読んでいた頃の、素朴な読書を思い出させてくれて、妙に楽しい。
早く読めばよかったなという本も少なくない。

掏摸

掏摸


そして今読んでいるのは、kindleの購入の決め手になったこのシリーズ。面白くて止まらない。

天冥の標? 救世群

天冥の標? 救世群

「具体」─ニッポンの前衛 18年の軌跡展 @国立新美術館

会期:2012 7/4〜9/10
展覧会Facebookページ: http://www.facebook.com/gutai.nact
『世界が認めた日本の前衛美術グループ、「具体」 その全貌が、ついに東京で明らかになる』


「具体展、行かなくちゃ行かなくちゃ」と言う声を、会期前からあちこちで聞いた。おお、そうなのかそうなのかと、私も行ってみた。
「具体」は、1954年に吉原治良が、神戸の芦屋で、若い芸術家とともに結成した前衛美術グループ。
会場に入ってすぐ、1955年に発表された、元々は野外(公園)に展示された作品が、まるで、竪穴式住居の復元のような風情で会場に設置されている。「早いなー、この時期、もうこれやってたのか」とかなり驚く。
その先に進むと、突然会場にけたたましいベルが鳴り響く。田中敦子の「ベル」である。
ああ、なんかこれ、懐かしい前衛の音だ。
ちょっと古い実験的な舞台や映画の中でも、このベルの音はよく鳴り響いていたよね。


それにしても、見れば見るほどおかしな人たちだ。
「われわれの精神が自由であるという証を具体的に提示したい」と言いながら、吉原治良という専制君主は「人のまねをするな」「これまでなかったものを作れ」という絶対命令で若い芸術家たちをがんじがらめにする。自由があるんだかないんだかわからない状況である。
鬼コーチのような吉原治良の締めつけが厳しければ厳しいほど、会員はもがき苦しみ、どんどんおかしなことになる。虎の穴状態である。白髪一雄とか、もうどうしちゃったんだとツッコミ入れたくなるようなおかしさ。
強度のある前衛を生み出した環境が、おおよそ前衛的でないことに驚く。
この虎の穴から飛び出して突っ走る陽性な勢いって、関西ならではのものだろうと感じる。ノリと言ってもいいのかもしれない。
「小難しい理屈より、ほとばしる勢いなんだなあ、芸術に必要なのは」と思ったことです。
これって、鑑賞する側にも言えることで、何かを読み取ろうとかする前に、ほとばしるノリで鑑賞したほうがいい。


このノリで、「具体」は世界に進出していき、世界で認められる。東京で認められたいなんて言わずに、いきなり世界なのが実にステキだ。
そして、吉原治良が亡くなったら、それでパチンとおしまいになる。
私の生まれる少し前から、大阪万博の頃まで、こんな人たちが関西で「前衛」していたんだな。久しぶりに驚いてばかりの展覧会だった。


「独創性を最も高く評価しなければならない」(1963年 吉原治良) この言葉をいつも忘れず行こう。